オリンピックおじさんについて

生い立ち

1926年(大正15年)4月16日に富山県井波町(現南砺市)生まれ。
実家は、その当時はめずらしい機械屋根板の製造事業を営んでいた。物心ついた頃から建築および商売を父に見習いながら育った。学生時代は、剣道、グライダー、機械体操、銃剣術に長けていた。

昭和20年5月の戦時下、19歳の時、陸軍へ入隊した。グライダー操縦を得意とし航空知識があったが、色弱があり海兵と航空兵はなれず、陸軍入隊となった。
入隊したからには陸軍においてトップを目指そうと入隊日に得意の銃剣術で上官に手合わせをお願いしたところ、その上官を打ち負かしてしまった。その翌日から教官として採用された。
教官任務についていた為、本人は戦地へ出兵することなく命拾いしたが、一緒に入隊した多くの同胞が戦地で命を落とし、彼らの命を無駄にしないよう精一杯生きて日本国の為に尽くそうと心に誓った。

終戦後、日大工学部建築学科に入学。学業と運動共に体力の限界ぎりぎりまで打ち込む毎日を送っていたが、大学二年の時、急性肺炎に罹り、さらに結核へ移行してしまった。その当時、結核は死の病であり、体力気力共に消耗する日々が続いた。大学三年になっても一向に快方へ向かわなかったので、どうせ死ぬなら死ぬ前に温泉にでも行ってみようと、湯治の目的も含め温泉廻りの旅へ出た。そうして北海道の登別温泉にまでたどり着き、そこで東京でワイヤーロープの会社を経営しているご夫婦と出会う。そのご夫婦に気に入られ、東京に戻ってからもお世話になった。体力と気力も徐々に回復し、大学卒業後、そのご夫婦の会社へ就職し、営業を担当した。

ある時、結果として売り上げ拡大に繋がり利益はあったものの、独断で製品を格安販売してしまうという失態をしてしまった為、その責任をとって2年間給料をとらずに会社へ奉仕勤務した。その後、その会社が大きな不渡りを出し破産宣告寸前のところまでいく事態に陥る。不渡りを出した相手先の会社の社長のところに一ヶ月居座り倉庫にあった品物や裏書き手形などを回収することに成功し、何とか自分の会社を救った。

その後、別のロープ製造会社に転職し、ここもまた不渡りを出して倒産寸前に。独自の人脈をフルに活用して日本国中の国鉄のワイヤーロープを落札し、その会社も救った。

1960年(昭和35年)、東京都江東区にワイヤロープ製造業「浪速商事」を設立。
その後、ホテル業、不動産業など事業を拡大し、社長を経て現在は会長職。

人生哲学

  • 人を喜ばす数の多い人が幸せになれる。

  • 世界中のすべての関わり、また、人と人との関わりでいち番大切なもの。それは、「納得」と「信頼」だ。心と体をひとつにして相手にぶつかる。もてる力の「総てを生かす」。その時、真の心のつながりが生まれる。そして、「善の循環」が誕生する。

  • 言葉は通じなくても、真心は世界の人に伝わる。

  • 人間一代しか生きられない。

著書

  • 「ぶっつけ本番に勝て!」KKロングセラーズ
    1992年3月発行

  • 「愛と笑顔が人類を救う」KKロングセラーズ
    2003年2月発行

オリンピックおじさんQ&A

  • オリンピックおじさんって一体何者?

  • ワイヤーロープ製造業、ホテル業、不動産業を営む会社を築いた事業家です。

  • 国やオリンピック関係団体とのどんな関係があるの?

  • どの団体組織とも一切関係はなく、またどこからも援助を受けたりすることはありません。純粋におじさん個人の志で、自分のポケットマネーを使って世界のオリンピックへ出向き応援をしています。

  • 冬季オリンピックは応援しないの?

  • 夏季オリンピックの方が参加国が多くより多くの世界中の人達との交流ができること、また、夏季オリンピックの方が団体戦やゲーム性の高い競技が多く「応援」によって会場の雰囲気やゲームの流れを変えるなどの効果が高い為、夏季オリンピックに行くようにしています。

  • オリンピックおじさんは外国語が堪能なの?

  • いいえ、英語をはじめ外国語は全くできません。だからこそ、言葉に頼らず、世界のどんな国の人とでも真心を交わし合うことができる素晴らしさがわかります。

  • 「国際オリンピック応援団長」という肩書はどうしてついたの?

  • 1984年のロサンゼルスオリンピックの時、海外の人達から「インターナショナル・チアリーダー」と呼ばれるようになり、それ以来、「国際オリンピック応援団長 International Cheer Leader」の肩書きをつけるようになりました。

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